古地図による「江口の里と大隅島の歴史を訪ねる」
東淀川の淀川、神崎川、新大阪に囲まれた辺りは古代は大隅島と呼ばれていました。
古代から1925年まではこの辺りは西成郡大道村、中島村、 豊里村でした。ということで、今の西成区とは違い、大阪の西側、尼崎までの大坂西部、北部、福島、大阪駅付近、そしてこの辺りまでがすべて西成郡でした。
そして、大阪の東部は東成郡です。
今の大阪市は、江戸時代の大坂三郷と西成郡、東成郡だということです。
大隅島は4世紀末に応神が置いた大隅宮の伝承地です。また、6世紀前半には安閑天皇が大隅島に牛を放つよう指示したことが『日本書紀』に記されていることから、古代より牛牧に適した土地であったと推測されます。
写真は
淀川開削時、明治40年頃の古地図
ほとんど家がなく田んぼが点在しているだけということが分かります。
江口
「難波江口(なにわえのぐち)」という言葉から出たもの。
またこの江口の里は
歓楽街、 遊女の里 として栄えました。交通の要衝であることから生み出された遊興施設の存在であり,なかでも観音,中君,小馬,白女,主殿をはじめとする遊女が,小端舟と呼ばれる舟に乗って貴紳の招に応じたことは,当時の日記が多く物語る。住吉社や熊野等への参詣時における貴族と遊女の交流の中から,芸能や文学が生み出されており,新古今和歌集にも選ばれています。
江口の君塚と西行塚
淀川右岸を潤した三千樋
川の後にかっかていた橋
逆巻き地蔵
地蔵といえども大きいです。
応神天皇の大隅の宮跡と言われている大隅神社
沢山の狛犬がお出迎え
ここ大隅島1400年前から牛の放牧場
『日本書紀』535年の9月に安閑天皇が「牛を難波大隅嶋と媛嶋松原に放て」という記事があり、1500年前よりここで乳牛を飼っていました。
古代安閑天皇を祀った大宮神社
平太(平田)の渡し
延宝4年(1676)頃より平田の渡しの営業開始します。昭和45年(1970)で約300年にわたって営業が続けられた。ラッシュでは積み残し、最盛期には1日に3,000人の乗客と670台自転車を運ぶ、まさに市民の足となりました。
昭和45年に豊里大橋ができるとともに淀川に残る最後の渡しも姿を消すこととなった。
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