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2022年06月14日

「大阪の百済」 大阪の歴史と文化  

知っているようで知らない大阪 大阪の歴史・文化
「大阪の百済」

大阪に百済が??、百済って、古代朝鮮の国名ではと疑問に思われる方も多いと思いますが事実なのです。その痕跡は今も残っていますよ。
 古代朝鮮は北から高句麗、新羅、百済と三つの国から成り立っていました。ヤマト朝廷は4世紀後半にほぼ日本列島を統一し、同時に朝鮮半島、特に南に位置する百済との交流が始まりました。資料に残るのは369年ころ百済と国交樹立をすることとなります。そのことが石上神宮所蔵「七支刀」(国宝)銘文に書かれています。応神朝の時代に難波大隅の宮(現在の東淀川区)があったとされます。その後、百済の聖明王から金銅像、経本などが欽明13年(552)送られると、『日本書紀』に記述が残っています。善光と豊璋の2人の皇太子が舒明天皇3年(631年)に来日。ところが、660年には百済は唐や新羅に攻められ滅亡し、その後、663年白村江の戦いで完敗する。それゆえに大勢の人が日本へ渡来し、残された善光をはじめ百済王一族が難波(天王寺区堂ケ芝・百済寺跡と細工谷・百済尼寺跡)に居住したことが、「日本書紀」天智3年条に “百済王善(禅)光王以て難波に居べらしむ”と記されています。その最初の居住地が今の天王寺の東部であり、この一帯に、百済郡ができたと考えられます。『続日本紀』によれば、聖武天皇が大仏に鍍金するための黄金探索をしていたところ、当時陸奥国で金を発見され天皇は狂喜し異例の7階級特進の大出世をした百済王敬福は、天平勝宝2年(750年)に河内守を命じられたという。これを契機として、一族の本拠を河内国へと移し百済野は一旦消滅することになります。現在枚方市に史跡として百済寺があるのはそのためです。
 時は飛んで1100年経た明治22年(1889年)に鷹合、砂子、湯谷島、中野の4ケ村が合併して、南百済村、北百済村は桑津、今林、杭全、今川が合併されたことに因みます。ただ1925年(大正14年)の大阪市二次市域拡張により消滅することに。現在は南百済小学校や百済公園に百済大橋などにその地名が残るのみで、行政上での地名はなくなっています。JR東部市場前駅周辺は、明治42年(1909)から昭和20年(1945)ころまでは近くに旧国鉄の旅客駅「百済駅」も存在していました。今は貨物駅として存在しています。このように生野から東住吉区にかけて古代から多くの渡来人が生活していました。勿論百済以外、新羅も高麗も勿論痕跡が多く残ります。ちなみに平野川は百済川、駒川は高麗川と書かれていたことがわかっています。