2025年03月08日
大阪おもしろ学『大阪の地名由来』
私が主催する「大阪おもしろツァー」の例会。
冬場、夏場は外回りは大変なので講演会。会場は便利な天満駅前の北区民センター、部屋は余裕を持って2部屋連続の場所を借りて。ただ思ったより参加者は少なく40名ほどでしたが
演題は
2時間、大いに盛り上がり参加者からは質問が飛び交い、「他の講演にない内容で楽しく頭に残った、高齢者大学校の講座の何倍も良かったと」の感想を多く大いに心づく。
講座後の恒例食事会は「ベジタブルonion」、ここは泉州野菜をメインに色んな食事が頂けるお店で、見つけた当初はがらがらであったのにこの日は表に行列が、ご免といいながら一同中へ。
部屋を借り切り楽しく90分食事とお喋りを楽しみ頭とお腹を活性していただきました。
10数年来「歴史と文化の大阪」を知ってもらいたく活動をしています。その為費用も実費に近い¥800で(以前は¥500)。入会金、年会費も無料
これで保険、資料、下見、会場代(マイク代、プロジェクター等)そのため毎回美味しくて安いお店を探しまわり、講座のさいは講座生に払って貰うのではなく私もきちんと支払います。
グルメ会を毎回開催するのが一番大変で費用もかかるのですが他の講演にはない私の独自の方法で、参加者も大いに楽しみにされて居るので大変ですが、止めるわけにはいけません。
冬場、夏場は外回りは大変なので講演会。会場は便利な天満駅前の北区民センター、部屋は余裕を持って2部屋連続の場所を借りて。ただ思ったより参加者は少なく40名ほどでしたが
演題は
知っているようで知らない「大阪おもしろ学『大阪の地名由来』
2時間、大いに盛り上がり参加者からは質問が飛び交い、「他の講演にない内容で楽しく頭に残った、高齢者大学校の講座の何倍も良かったと」の感想を多く大いに心づく。
講座後の恒例食事会は「ベジタブルonion」、ここは泉州野菜をメインに色んな食事が頂けるお店で、見つけた当初はがらがらであったのにこの日は表に行列が、ご免といいながら一同中へ。
部屋を借り切り楽しく90分食事とお喋りを楽しみ頭とお腹を活性していただきました。
10数年来「歴史と文化の大阪」を知ってもらいたく活動をしています。その為費用も実費に近い¥800で(以前は¥500)。入会金、年会費も無料
これで保険、資料、下見、会場代(マイク代、プロジェクター等)そのため毎回美味しくて安いお店を探しまわり、講座のさいは講座生に払って貰うのではなく私もきちんと支払います。
グルメ会を毎回開催するのが一番大変で費用もかかるのですが他の講演にはない私の独自の方法で、参加者も大いに楽しみにされて居るので大変ですが、止めるわけにはいけません。
¥1000に上げたらどうかとはいって貰いますが、誰でもが参加し易いようにこの値段で当分続けるつもりです。

2024年12月31日
大阪おもしろツァーの案内
どなたでも参加できる「大阪おもしろツァー」
25年度分の予定表をお知らせします。
会員登録されますと毎回、詳細講座案内を送ります。
登録は無料で年会費も無料です。参加したときだけ実費費用だけでです。
どなたさまでもどうぞ参加してください。

25年度分の予定表をお知らせします。
会員登録されますと毎回、詳細講座案内を送ります。
登録は無料で年会費も無料です。参加したときだけ実費費用だけでです。
どなたさまでもどうぞ参加してください。


2024年08月14日
聖徳太子は未来を見通せた?!
信仰の対象としての聖徳太子
今夏、「知っているようで知らない」シリーズで「宗教都市大阪」という演題でお話を
その中で「聖徳太子は未来を見通せた?」について
◎『平家物語』巻八「山門御幸」
三種の神器をたずさえて、平家一門西国をめざして落ちていくという状況の中
「・・かかる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、けふの事こそゆかしけれ」
◎『明月記』 1233年 (天福元年)11月20日の記述
瑪瑙(めのう)の石箱が発見され、そこに聖徳太子の未来記が刻まれていた。
◎『太平記』巻六の「正成天王寺未来記披見事」によると、正成が聖徳太子の未来記を見たのは1332 (元弘2年)8月3日
「隠岐に配流された後醍醐天皇が再び帝位に就き、鎌倉幕府を滅亡に導くであろう」という啓示を受けた。
◎江戸時代には、「先代旧事本紀大成経」が発見され話題となる。
全72巻で構成されており、69巻の「未然本紀」が未来記?幕府は偽物であると断定し、出版と販売を固く禁じた

●写真1 国宝「聖徳太子御手印縁起(四天王寺縁起 根本本」複製本
1007年(寛弘4)金堂から発見され、御手印縁起は聖徳太子が作成して手印を印したというもので,予言の書として世間の注目をあつめた。
ただそれは藤原道長の帰依と助成を期待して寺僧が偽作したものとされている。

●写真2
国宝 「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」南北朝時代
「いずれも四天王寺」
後醍醐天皇宸翰本
楠木正成の後をうけ、建武2(1335)年5月8日に、後醍醐天皇が四天王寺にて『四天王寺縁起』を閲覧する。太子の本願に感銘を受けた天皇は、自から書写して正本とし、「太子の聖跡は何人の目にも触れさせるものではないので、これよりのちは堂内から出してはならない」と奥書にしたためた。
※宸翰とは 天皇の直筆の書でほとんどが国宝
その結果四天王寺は国家と繁栄は四天王寺があってのことと大いに地位向上

このように古代から近世まで、時代ごとの宗教都市大阪に関する事例を分かり易く講義をした。2時間が2コマ4時間の講座です。
一時期「ノスタルダムスの予言」としてマスコミを賑わしてきましたが我が国の「聖徳太子の予言」の方が1000年程古くより多くの予言をしています。マスコミもよく分からんアチャラの人より日本の英雄の話を取り上げてほしいものです。
なお、聖徳太子の「未来記」に関しては色々な書物が出ています。皆さんも一度解釈されて見たらどうですか。
2024年06月21日
「勝間なんきん」 昭和の時間が流れる勝間街道から紀州街道
なにわ伝統野菜を訪ねての第1回目は「勝間なんきん」です。
大阪市西成区玉出町(旧勝間村)が発祥地。1キログラム程度の小型で縦溝とコブのある粘質の日本かぼちゃ。果皮は濃緑色だが、熟すと赤茶色になり甘みが増す。万延元年(1860)に勝間村の庄屋、百姓らが天満青物市場の行司あてに野菜7品に限り同村内での立売許可願を申し出ましたが、その中にも南京瓜と記載されています。果実は小さいものの美味で勝間村の特産品として、戦前まで生産されました。しかし都市化の影響や西洋カボチャの進出によって廃れてしまいました。
「こつまなんきん」は河内女の愛欲-今東光作こつまなんきん』で一時期有名になりました。

勝間(こつま)街道とは
紀州街道の側道で江戸時代に栄えた、難波から木津を経て粉浜新在家で紀州街道と合流する道で現在でもきっちり存在しています。街道筋には元祖たこ焼の名店や手作り味噌、煎餅、有名?駄菓子製造会社とか手作りで日本一の栄誉に輝いたソースメーカー、果ては他私有演劇が2座もあったり、大阪で天神橋商店街に次ぐ長い「鶴見橋商店街」もありタイムスリップ感が大いに味わうことができます。
明治時代の地図
現在の地図です
生根神社の「こつま南瓜塚」
豊受大御神(食物の神・外宮)より陽の気の精を賜った「こつま南瓜」の御霊を祀っています。昭和61年冬至に、「こつま南瓜祭」が神事として復活したと同時に現在の塚が建立される。毎年12月の冬至の日に「こつま南瓜祭り」は見物です。

大阪市西成区玉出町(旧勝間村)が発祥地。1キログラム程度の小型で縦溝とコブのある粘質の日本かぼちゃ。果皮は濃緑色だが、熟すと赤茶色になり甘みが増す。万延元年(1860)に勝間村の庄屋、百姓らが天満青物市場の行司あてに野菜7品に限り同村内での立売許可願を申し出ましたが、その中にも南京瓜と記載されています。果実は小さいものの美味で勝間村の特産品として、戦前まで生産されました。しかし都市化の影響や西洋カボチャの進出によって廃れてしまいました。
「こつまなんきん」は河内女の愛欲-今東光作こつまなんきん』で一時期有名になりました。

勝間(こつま)街道とは
紀州街道の側道で江戸時代に栄えた、難波から木津を経て粉浜新在家で紀州街道と合流する道で現在でもきっちり存在しています。街道筋には元祖たこ焼の名店や手作り味噌、煎餅、有名?駄菓子製造会社とか手作りで日本一の栄誉に輝いたソースメーカー、果ては他私有演劇が2座もあったり、大阪で天神橋商店街に次ぐ長い「鶴見橋商店街」もありタイムスリップ感が大いに味わうことができます。


生根神社の「こつま南瓜塚」
豊受大御神(食物の神・外宮)より陽の気の精を賜った「こつま南瓜」の御霊を祀っています。昭和61年冬至に、「こつま南瓜祭」が神事として復活したと同時に現在の塚が建立される。毎年12月の冬至の日に「こつま南瓜祭り」は見物です。
サンヨー製菓株式会社
昭和21年(1946)、菓子製造開始。昭和36年(1961)「モロッコヨーグル」を開発。平成8年(1996)には、普通サイズ11個分のジャンボサイズ「ジャンボヨーグル」を発売して話題となる。

株式会社ハシモト
日本で唯一の型抜き製造メーカで、昭和27年1952)に当地に拠点を構えました。

株式会社池下商店(ヒシ梅ソース)
大正12年(1923)創業。大正15年(1926)にウスターソ「ス、昭和23年(1948)に「クマリソース」(とんかつソース)を発売。大阪で一銭焼きやたこ焼きの屋台などが登場したさいに、酒販店を通じて広がっていきました。工場は昭和30年代に建設。ラベルはすべて手張りで、手作業で製造しています。製造量は年間180キロリットルで、平成19年(2007)には、日本経済新聞のおすすめソースランキングで1位を獲得、知名度は全国区へと広がりました。

昭和21年(1946)、菓子製造開始。昭和36年(1961)「モロッコヨーグル」を開発。平成8年(1996)には、普通サイズ11個分のジャンボサイズ「ジャンボヨーグル」を発売して話題となる。

株式会社ハシモト
日本で唯一の型抜き製造メーカで、昭和27年1952)に当地に拠点を構えました。

株式会社池下商店(ヒシ梅ソース)
大正12年(1923)創業。大正15年(1926)にウスターソ「ス、昭和23年(1948)に「クマリソース」(とんかつソース)を発売。大阪で一銭焼きやたこ焼きの屋台などが登場したさいに、酒販店を通じて広がっていきました。工場は昭和30年代に建設。ラベルはすべて手張りで、手作業で製造しています。製造量は年間180キロリットルで、平成19年(2007)には、日本経済新聞のおすすめソースランキングで1位を獲得、知名度は全国区へと広がりました。

2024年06月01日
「人、モノ、富が集まり、文化と人を育む江戸から明治の北船場を訪ねる」
「人、モノ、富が集まり、文化と人を育む江戸から明治の北船場を訪ねる」
江戸時代、商都大阪の代名詞「船場」 、1700年頃。「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」と呼ばれる繁栄を築きました。明治以後も三権分立を合意成立させた「大阪会議」の舞台、五代友厚を中心として紡績業・鉱業・鉄道業、株式取引所等設立され日本経済における大阪の中心地と発展してきました
現在の地図です
江戸時代の古地図です
懐徳堂旧阯碑
日生本社は江戸時代懐徳堂がありました
1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出する。今は大阪大学にその意志が受け継がれています。
除痘館跡
緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。
銅座の跡
1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。
適塾
適塾は、1838年(天保9)に緒方洪庵が開いた蘭学塾の私塾です。1845年(弘化2)から1862年(文久2)の17年間をこの地で過ごしました。1階は緒方洪庵家族の生活スペース、2階は蘭学勉学に励んだ若者たちの大部屋でした。適塾は大学の元祖と言われ、医学以外の自然科学も学ぶ総合教育機関でした。
吉田理容所
昭和5年(1930)に開業した老舗の理髪店。当初は9~10軒長屋だったそうだが、そのうち5軒が現存している。2代目店主は、「開業当時の三橋筋は木造の家が並び、牛車通っていた」という話を父から聞いたとのこと。お店には開業当時そのままドイツ製の鏡が並ぶ
大阪慶應義塾跡
緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉が、江戸築地に慶應義塾の礎となる蘭学塾を開塾。その後、最初の分校を開いたのが大阪で、1873年(明治6)に大阪慶應義塾がこの地に開設されました。ただ大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。
旧鴻池家本宅跡
山中新六は伊丹鴻池村で鴻池屋という店を開いて醸造を始め、清酒を江戸へ売りに出し、元和5年(1619)には大坂店舗を設けて盛業。後を継いだ八男善右衛門は十人両替の筆頭となり、貞享2年(1685)には住友家と並称された豪華な本宅を完成した。
高麗橋野村ビルデイング
昭和2年(1927)に安井武雄の設計で建てられた代表的なモダニズム建築で、安井氏設計のビルとしては最古のもの。向かいには昭和11年(1936)に建てられた。周辺には国の有形文化財の新井ビル、伏見ビル、生駒ビルヂングなどがあり、近代建築ビルの宝庫。
新井ビル(五感北浜本店)
1922年(大正11)に、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、のち新井証券を経て新井ビルとなる。銀行建築の名残を感じさせる1階の柱列が印象的な外観の建物です。戦後テナントビルとなり、2005年(平成17)にスイーツの「五感 北浜本館」がオープンする。
天五に平五 十兵衛横町
両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。
開平小学校
明治5年(1872)に山片蜂桃の子孫が邸宅の土地、家屋を寄進して設立したのが愛日小学校ですが、同じころ東船場には6つの小学校があった。それが3校(のちの集英・汎愛・浪華)に合併され、昭和22年(1947)には集英小学校に統合。この愛日と集英の2校が、生徒数の減少に伴って平成2年(1990)に合併してできたのが開平小学校です。
今橋
秀吉の時代からあった。今橋は大坂の陣の絵図にも記載されています。江戸時代初期にはこのあたりまで川浜が迫っていました
北浜長屋
大正元年(1912)建設の国の登録有形文化財。土佐堀川沿いにある木造の2軒の長屋。道路側から見ると2階建てで、土佐堀川側から見ると3階建てになっている。観音開きの開口部が設けられ、両端には卯建が立ち上がる和風の建物だが、玄関の上部に洋風で、和洋折衷のデザインになっています。2017年(平成29)にリノベーションが行われ、OXYMORON(オクシモロン)等3店オープン。
北浜レトロビルヂング
1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。建物は国の登録有形文化財に指定されています。
大阪証券取引所
東京・兜町、名古屋・伊勢町とともに日本の三大証券取引所のひとつ。五代友厚らが発起人になった大阪株式取引所が前身です。正面玄関前の銅像・五代友厚は薩摩出身で、大阪株式取引所の設立や大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の初代会頭として、明治維新で落ち込んでいた大阪経済の復興に寄与した人物です。
五代友厚の銅像はここ証券取引所、大阪商工会議所 大阪市立大、光世証券前 大阪ビジネスフロンティア高校(天王寺商業高校)
江戸時代、商都大阪の代名詞「船場」 、1700年頃。「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」と呼ばれる繁栄を築きました。明治以後も三権分立を合意成立させた「大阪会議」の舞台、五代友厚を中心として紡績業・鉱業・鉄道業、株式取引所等設立され日本経済における大阪の中心地と発展してきました



日生本社は江戸時代懐徳堂がありました
1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出する。今は大阪大学にその意志が受け継がれています。

緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。

1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。

適塾は、1838年(天保9)に緒方洪庵が開いた蘭学塾の私塾です。1845年(弘化2)から1862年(文久2)の17年間をこの地で過ごしました。1階は緒方洪庵家族の生活スペース、2階は蘭学勉学に励んだ若者たちの大部屋でした。適塾は大学の元祖と言われ、医学以外の自然科学も学ぶ総合教育機関でした。

昭和5年(1930)に開業した老舗の理髪店。当初は9~10軒長屋だったそうだが、そのうち5軒が現存している。2代目店主は、「開業当時の三橋筋は木造の家が並び、牛車通っていた」という話を父から聞いたとのこと。お店には開業当時そのままドイツ製の鏡が並ぶ

緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉が、江戸築地に慶應義塾の礎となる蘭学塾を開塾。その後、最初の分校を開いたのが大阪で、1873年(明治6)に大阪慶應義塾がこの地に開設されました。ただ大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。

山中新六は伊丹鴻池村で鴻池屋という店を開いて醸造を始め、清酒を江戸へ売りに出し、元和5年(1619)には大坂店舗を設けて盛業。後を継いだ八男善右衛門は十人両替の筆頭となり、貞享2年(1685)には住友家と並称された豪華な本宅を完成した。

昭和2年(1927)に安井武雄の設計で建てられた代表的なモダニズム建築で、安井氏設計のビルとしては最古のもの。向かいには昭和11年(1936)に建てられた。周辺には国の有形文化財の新井ビル、伏見ビル、生駒ビルヂングなどがあり、近代建築ビルの宝庫。

1922年(大正11)に、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、のち新井証券を経て新井ビルとなる。銀行建築の名残を感じさせる1階の柱列が印象的な外観の建物です。戦後テナントビルとなり、2005年(平成17)にスイーツの「五感 北浜本館」がオープンする。

両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。

明治5年(1872)に山片蜂桃の子孫が邸宅の土地、家屋を寄進して設立したのが愛日小学校ですが、同じころ東船場には6つの小学校があった。それが3校(のちの集英・汎愛・浪華)に合併され、昭和22年(1947)には集英小学校に統合。この愛日と集英の2校が、生徒数の減少に伴って平成2年(1990)に合併してできたのが開平小学校です。

秀吉の時代からあった。今橋は大坂の陣の絵図にも記載されています。江戸時代初期にはこのあたりまで川浜が迫っていました

大正元年(1912)建設の国の登録有形文化財。土佐堀川沿いにある木造の2軒の長屋。道路側から見ると2階建てで、土佐堀川側から見ると3階建てになっている。観音開きの開口部が設けられ、両端には卯建が立ち上がる和風の建物だが、玄関の上部に洋風で、和洋折衷のデザインになっています。2017年(平成29)にリノベーションが行われ、OXYMORON(オクシモロン)等3店オープン。

1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。建物は国の登録有形文化財に指定されています。

東京・兜町、名古屋・伊勢町とともに日本の三大証券取引所のひとつ。五代友厚らが発起人になった大阪株式取引所が前身です。正面玄関前の銅像・五代友厚は薩摩出身で、大阪株式取引所の設立や大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の初代会頭として、明治維新で落ち込んでいた大阪経済の復興に寄与した人物です。
五代友厚の銅像はここ証券取引所、大阪商工会議所 大阪市立大、光世証券前 大阪ビジネスフロンティア高校(天王寺商業高校)
2024年03月08日
NHK文化センター梅田教室
歴史の街歩き
本日の3月8日、大阪の全国紙朝刊に入っていたNHK文化センター梅田教室のチラシ
私の通年の講座とは別に「春の現地へ」ということで
春の大阪・歴史の散歩
~京街道から大川端を歩く~
が1ページ目の右下に掲載されていました。頁の都合で詳細は載りませんでしたが下記の通りです。
豊臣期の遺構を訪ねながら京橋から続く京街道を歩き、野田橋跡からは網島に渡り大長寺をはじめ心中天網島の舞台を辿りながら春の息吹を感じる花の名所を大川端 沿いに歩きます。
桜の名所なので桜も楽しめればと思います。
◎集合場所:京阪・大阪メトロ谷町線「天満橋」1階スタバ前 10時
◎解散場所:JR環状線「桜ノ宮」 13時
主なコース
豊臣大坂城石垣→京橋→旧片町駅→野田橋跡→網島→藤田邸跡→わざと切れ跡→大長寺→桜ノ宮公園→青湾→桜ノ宮神社→桜宮
関心のある方はどうぞ。

本日の3月8日、大阪の全国紙朝刊に入っていたNHK文化センター梅田教室のチラシ
私の通年の講座とは別に「春の現地へ」ということで
春の大阪・歴史の散歩
~京街道から大川端を歩く~
が1ページ目の右下に掲載されていました。頁の都合で詳細は載りませんでしたが下記の通りです。
豊臣期の遺構を訪ねながら京橋から続く京街道を歩き、野田橋跡からは網島に渡り大長寺をはじめ心中天網島の舞台を辿りながら春の息吹を感じる花の名所を大川端 沿いに歩きます。
桜の名所なので桜も楽しめればと思います。
◎集合場所:京阪・大阪メトロ谷町線「天満橋」1階スタバ前 10時
◎解散場所:JR環状線「桜ノ宮」 13時
主なコース
豊臣大坂城石垣→京橋→旧片町駅→野田橋跡→網島→藤田邸跡→わざと切れ跡→大長寺→桜ノ宮公園→青湾→桜ノ宮神社→桜宮
関心のある方はどうぞ。


2023年11月29日
天王寺七坂 南エリア
<太>北エリアの後は、四天王寺夕陽丘から四天王寺までを。
30名越える人数で相変わらず大人気。
七坂自体は残り「口縄坂」、「愛染坂」、「清水坂」、「天神坂」、「逢坂」の5か所だが夕陽丘由来の家隆塚、清水r寺、最古の多宝塔のある愛染堂、真田信繁終焉地の安居神社、縄文海進の跡、その他見所多くて、あっという間の3時間。太>







30名越える人数で相変わらず大人気。
七坂自体は残り「口縄坂」、「愛染坂」、「清水坂」、「天神坂」、「逢坂」の5か所だが夕陽丘由来の家隆塚、清水r寺、最古の多宝塔のある愛染堂、真田信繁終焉地の安居神社、縄文海進の跡、その他見所多くて、あっという間の3時間。太>


2023年09月07日
高野山は実は神道?!
皆さん、弘法大師、空海さんが開いた高野山は密教仏教の聖地と云われていますが実は神社の土地を借りて開いたというのをご存じでしょうか。それを確認に行ってきました。
まずは高野山辺りを神域としていた丹生都比賣神社(にうつひめじんじゃ)に。ここは紀伊国一之宮で勿論式内社(名神大社)です。世界遺産で国宝、重文を持ち合わせています。
高野山の山麓の山里に其の神社が鎮座しています。
初めての訪れずれましたが、その立派さと神々しさにうっとり。
神社に奉納しているは高野山の金剛峯寺をはじめ真言宗のお寺である。
このことからも空海は神仏習合を推し進めたと云われています。
水神という説と「丹」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)関連の説全国、特に紀伊山地にみられる「丹生」の付く土地・神社あります。
空海が丹生都比売神社から譲り受けたという神領で空海を案内したという二頭の犬も祀られています。



まずは高野山辺りを神域としていた丹生都比賣神社(にうつひめじんじゃ)に。ここは紀伊国一之宮で勿論式内社(名神大社)です。世界遺産で国宝、重文を持ち合わせています。
高野山の山麓の山里に其の神社が鎮座しています。
初めての訪れずれましたが、その立派さと神々しさにうっとり。
神社に奉納しているは高野山の金剛峯寺をはじめ真言宗のお寺である。
このことからも空海は神仏習合を推し進めたと云われています。
水神という説と「丹」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)関連の説全国、特に紀伊山地にみられる「丹生」の付く土地・神社あります。
空海が丹生都比売神社から譲り受けたという神領で空海を案内したという二頭の犬も祀られています。
2023年06月18日
「ジャカランダの花と最古の寺院、四天王寺周辺の謎を探る」
このタイトルで歴史街歩きをやったはずが、今夏は女性ばかりの団体。好き放題に希望通りにガイドをすすめる。
天王寺出たところからラブホテル街を通り古民家、普茶料理の坂口楼、そして統国寺のベルリンの壁、堀越神社から茶臼山古戦場、何故かここで大いに盛り上がる。その後ジャカランタと骨仏、回向で有名な一心寺。何とここで2時間半過ぎている。
予定は3時間、これじゃ四天王寺と庚申街道はとてもとても無理。
最後に真田幸村終焉地に行きたいということで案内する。
メチャクチャ、行きあたりばったりであるが皆さん大喜び。
これでいいか。
最後に私のツァーならではのお楽しみ、天王寺にて会食を、予約している和食が美味しいお店で、追い出されるまで楽しいお喋りを楽しむ。
なお、この会食はカルチャー案内は入っていないので私の食事代は自前である。高いのを食べると手元にはお金は残らないが皆さんが毎回期待するのと私の特徴なのでこれからも続けていきたく思います。









本来のコースは
和気清麻呂開削の跡→堀越神社→茶臼山→一心寺→逢坂→安居神社→清水寺→金剛組→四天王寺→関帝廟→久保神社→ 超願寺 → 庚申堂
半分もいけなかったがまた今度と言うことで納得。
天王寺出たところからラブホテル街を通り古民家、普茶料理の坂口楼、そして統国寺のベルリンの壁、堀越神社から茶臼山古戦場、何故かここで大いに盛り上がる。その後ジャカランタと骨仏、回向で有名な一心寺。何とここで2時間半過ぎている。
予定は3時間、これじゃ四天王寺と庚申街道はとてもとても無理。
最後に真田幸村終焉地に行きたいということで案内する。
メチャクチャ、行きあたりばったりであるが皆さん大喜び。
これでいいか。
最後に私のツァーならではのお楽しみ、天王寺にて会食を、予約している和食が美味しいお店で、追い出されるまで楽しいお喋りを楽しむ。
なお、この会食はカルチャー案内は入っていないので私の食事代は自前である。高いのを食べると手元にはお金は残らないが皆さんが毎回期待するのと私の特徴なのでこれからも続けていきたく思います。









本来のコースは
和気清麻呂開削の跡→堀越神社→茶臼山→一心寺→逢坂→安居神社→清水寺→金剛組→四天王寺→関帝廟→久保神社→ 超願寺 → 庚申堂
半分もいけなかったがまた今度と言うことで納得。
2023年06月11日
「中之島蔵屋敷跡を辿り江戸時代、大坂の繁栄を想う」
今週も各種団体を3回歴史街歩きを実施。
江戸時代の大坂は「天下の台所」、蔵屋敷は「天下の台所」の象徴。その蔵屋敷があった中之島を江戸時代の古地図で辿る。
大阪市役所、美作の国津山藩があったところで、江戸時代の古地図で中之島を端から端まで案内を実施しました。
梅雨のさなか、雨にも振られず今年もお天気男の神髄発揮です。




江戸時代の大坂は「天下の台所」、蔵屋敷は「天下の台所」の象徴。その蔵屋敷があった中之島を江戸時代の古地図で辿る。
大阪市役所、美作の国津山藩があったところで、江戸時代の古地図で中之島を端から端まで案内を実施しました。
梅雨のさなか、雨にも振られず今年もお天気男の神髄発揮です。


