2024年06月01日
「人、モノ、富が集まり、文化と人を育む江戸から明治の北船場を訪ねる」
「人、モノ、富が集まり、文化と人を育む江戸から明治の北船場を訪ねる」
江戸時代、商都大阪の代名詞「船場」 、1700年頃。「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」と呼ばれる繁栄を築きました。明治以後も三権分立を合意成立させた「大阪会議」の舞台、五代友厚を中心として紡績業・鉱業・鉄道業、株式取引所等設立され日本経済における大阪の中心地と発展してきました
現在の地図です
江戸時代の古地図です
懐徳堂旧阯碑
日生本社は江戸時代懐徳堂がありました
1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出する。今は大阪大学にその意志が受け継がれています。
除痘館跡
緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。
銅座の跡
1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。
適塾
適塾は、1838年(天保9)に緒方洪庵が開いた蘭学塾の私塾です。1845年(弘化2)から1862年(文久2)の17年間をこの地で過ごしました。1階は緒方洪庵家族の生活スペース、2階は蘭学勉学に励んだ若者たちの大部屋でした。適塾は大学の元祖と言われ、医学以外の自然科学も学ぶ総合教育機関でした。
吉田理容所
昭和5年(1930)に開業した老舗の理髪店。当初は9~10軒長屋だったそうだが、そのうち5軒が現存している。2代目店主は、「開業当時の三橋筋は木造の家が並び、牛車通っていた」という話を父から聞いたとのこと。お店には開業当時そのままドイツ製の鏡が並ぶ
大阪慶應義塾跡
緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉が、江戸築地に慶應義塾の礎となる蘭学塾を開塾。その後、最初の分校を開いたのが大阪で、1873年(明治6)に大阪慶應義塾がこの地に開設されました。ただ大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。
旧鴻池家本宅跡
山中新六は伊丹鴻池村で鴻池屋という店を開いて醸造を始め、清酒を江戸へ売りに出し、元和5年(1619)には大坂店舗を設けて盛業。後を継いだ八男善右衛門は十人両替の筆頭となり、貞享2年(1685)には住友家と並称された豪華な本宅を完成した。
高麗橋野村ビルデイング
昭和2年(1927)に安井武雄の設計で建てられた代表的なモダニズム建築で、安井氏設計のビルとしては最古のもの。向かいには昭和11年(1936)に建てられた。周辺には国の有形文化財の新井ビル、伏見ビル、生駒ビルヂングなどがあり、近代建築ビルの宝庫。
新井ビル(五感北浜本店)
1922年(大正11)に、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、のち新井証券を経て新井ビルとなる。銀行建築の名残を感じさせる1階の柱列が印象的な外観の建物です。戦後テナントビルとなり、2005年(平成17)にスイーツの「五感 北浜本館」がオープンする。
天五に平五 十兵衛横町
両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。
開平小学校
明治5年(1872)に山片蜂桃の子孫が邸宅の土地、家屋を寄進して設立したのが愛日小学校ですが、同じころ東船場には6つの小学校があった。それが3校(のちの集英・汎愛・浪華)に合併され、昭和22年(1947)には集英小学校に統合。この愛日と集英の2校が、生徒数の減少に伴って平成2年(1990)に合併してできたのが開平小学校です。
今橋
秀吉の時代からあった。今橋は大坂の陣の絵図にも記載されています。江戸時代初期にはこのあたりまで川浜が迫っていました
北浜長屋
大正元年(1912)建設の国の登録有形文化財。土佐堀川沿いにある木造の2軒の長屋。道路側から見ると2階建てで、土佐堀川側から見ると3階建てになっている。観音開きの開口部が設けられ、両端には卯建が立ち上がる和風の建物だが、玄関の上部に洋風で、和洋折衷のデザインになっています。2017年(平成29)にリノベーションが行われ、OXYMORON(オクシモロン)等3店オープン。
北浜レトロビルヂング
1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。建物は国の登録有形文化財に指定されています。
大阪証券取引所
東京・兜町、名古屋・伊勢町とともに日本の三大証券取引所のひとつ。五代友厚らが発起人になった大阪株式取引所が前身です。正面玄関前の銅像・五代友厚は薩摩出身で、大阪株式取引所の設立や大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の初代会頭として、明治維新で落ち込んでいた大阪経済の復興に寄与した人物です。
五代友厚の銅像はここ証券取引所、大阪商工会議所 大阪市立大、光世証券前 大阪ビジネスフロンティア高校(天王寺商業高校)
江戸時代、商都大阪の代名詞「船場」 、1700年頃。「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」と呼ばれる繁栄を築きました。明治以後も三権分立を合意成立させた「大阪会議」の舞台、五代友厚を中心として紡績業・鉱業・鉄道業、株式取引所等設立され日本経済における大阪の中心地と発展してきました



日生本社は江戸時代懐徳堂がありました
1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出する。今は大阪大学にその意志が受け継がれています。

緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。

1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。

適塾は、1838年(天保9)に緒方洪庵が開いた蘭学塾の私塾です。1845年(弘化2)から1862年(文久2)の17年間をこの地で過ごしました。1階は緒方洪庵家族の生活スペース、2階は蘭学勉学に励んだ若者たちの大部屋でした。適塾は大学の元祖と言われ、医学以外の自然科学も学ぶ総合教育機関でした。

昭和5年(1930)に開業した老舗の理髪店。当初は9~10軒長屋だったそうだが、そのうち5軒が現存している。2代目店主は、「開業当時の三橋筋は木造の家が並び、牛車通っていた」という話を父から聞いたとのこと。お店には開業当時そのままドイツ製の鏡が並ぶ

緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉が、江戸築地に慶應義塾の礎となる蘭学塾を開塾。その後、最初の分校を開いたのが大阪で、1873年(明治6)に大阪慶應義塾がこの地に開設されました。ただ大阪慶應義塾は2年足らずで閉校。

山中新六は伊丹鴻池村で鴻池屋という店を開いて醸造を始め、清酒を江戸へ売りに出し、元和5年(1619)には大坂店舗を設けて盛業。後を継いだ八男善右衛門は十人両替の筆頭となり、貞享2年(1685)には住友家と並称された豪華な本宅を完成した。

昭和2年(1927)に安井武雄の設計で建てられた代表的なモダニズム建築で、安井氏設計のビルとしては最古のもの。向かいには昭和11年(1936)に建てられた。周辺には国の有形文化財の新井ビル、伏見ビル、生駒ビルヂングなどがあり、近代建築ビルの宝庫。

1922年(大正11)に、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、のち新井証券を経て新井ビルとなる。銀行建築の名残を感じさせる1階の柱列が印象的な外観の建物です。戦後テナントビルとなり、2005年(平成17)にスイーツの「五感 北浜本館」がオープンする。

両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。

明治5年(1872)に山片蜂桃の子孫が邸宅の土地、家屋を寄進して設立したのが愛日小学校ですが、同じころ東船場には6つの小学校があった。それが3校(のちの集英・汎愛・浪華)に合併され、昭和22年(1947)には集英小学校に統合。この愛日と集英の2校が、生徒数の減少に伴って平成2年(1990)に合併してできたのが開平小学校です。

秀吉の時代からあった。今橋は大坂の陣の絵図にも記載されています。江戸時代初期にはこのあたりまで川浜が迫っていました

大正元年(1912)建設の国の登録有形文化財。土佐堀川沿いにある木造の2軒の長屋。道路側から見ると2階建てで、土佐堀川側から見ると3階建てになっている。観音開きの開口部が設けられ、両端には卯建が立ち上がる和風の建物だが、玄関の上部に洋風で、和洋折衷のデザインになっています。2017年(平成29)にリノベーションが行われ、OXYMORON(オクシモロン)等3店オープン。

1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。建物は国の登録有形文化財に指定されています。

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五代友厚の銅像はここ証券取引所、大阪商工会議所 大阪市立大、光世証券前 大阪ビジネスフロンティア高校(天王寺商業高校)
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